話題になっているケータイ小説を読みました。「恋空」です。映画など別メディアに変換されているものではなくて、原典を検証してみました。そこで、小説の直接内容ではなくて、テクノロジー(ケータイ)と文化(小説?)の関係について、現状で考えたことをログしておきます。
先ず、ケータイ小説の特徴とは、
A.文体が携帯の画面サイズに最適化されている。
B.愛自伝系、官能小説系、ボーイズラブ系などのジャンルが多い。
C.投稿サイトなどが存在し、作家と読者の立場が近い。
とまとめることができます。
この特徴で注目したいのはCです。中原のようにマルチメディア時代のコンピューターカルチャーを愛した人間は、Cの特徴からすぐにトフラーのプロシューマーを連想します。
コンピューターによって高度な知的創造力を得た人間がネットワークで結びつき、理性を獲得して高度な創造を交響するという、わかりやすいユートピアのイメージです。クリエイティブコモンズとか、オープンソースとか、コンピューターと創造行為に関するさまざまな取り組みの中には、乱暴にいうとだいたいこのイメージの下敷きがあるように私は考えています。
そして、私自身、何か一つ信条を選ぶとするならば、プロシューマー的なユートピアを夢見るぐらいしか、アクションにつながる信条を持てないでいます。
そこで問題になるのは、「ケータイ小説」はプロシューマー的なユートピアのインスタンスであるか否かということです。私は「恋空」やいくつかの作品を読んで、否であると思いました。
その理由を、特徴のABから考えてみました。先ず、Aについては本質的な問題ではないように思います。携帯電話の技術的スペックによる特徴ですが、これは文化的にも技術的にも創造性を爆発させる可能性が残されている特長です。たとえば、エモティコン(絵文字)のように制限を逆に昇華させる手段は残されています。
Bは、「ケータイ小説」がプロシューマー的なユートピアではないことの本質的な理由です。ケータイ小説で有名になる作品のジャンルが偏る理由は、携帯ユーザーの中心である若年層に共感を得やすいからだそうです。「等身大の文体で、身近な問題を取り上げている」からヒットするという分析があります。
さて、興行的ヒットは脇において、文化的(?)な創造性を考えた場合、等身大で身近な作品から学ぶことがあるでしょうか?すくなくとも私は、あやふやな概念、体験、言語化できない問題などを、すぐそこにあるように共感させてくれるからこそ、小説やアートなどを楽しんでいます。
結論として、現状、プロシューマー的なユートピア(コンピューターオタク的なユートピア?)は確立の兆しはないということ、また、そもそも、それは虚しいユートピアであって、現在具体的に理解できる実験結果(ケータイ小説)から、あたらしいアクションに結びつく考え方を学ぶ必要があることを、ログとして残したいと思います。ネットワークを利用した創造に伴う、絶え間ない不毛な同質感、共有感を超えて、「わけがわからないもの」を飲み込める態度を保ちたいと思います。
中原
ケータイ小説批評 「恋空」
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“ケータイ小説批評 「恋空」” への0件のフィードバック
こんにちは、あけましておめでとうございます。
「絶え間ない不毛な同質感、共有感を超えて」っていう言葉に反応してコメントしてます。
私自身を振り返って、研究者コミュニティにどっぷり浸かる気になれなかったり、ブログやmixiが長く続かなかったり、ハマっていたtwitterでfollow相手を増やした結果、twitterから足が遠ざることになったりしたのは、プロシューマ達同士の「絶え間ない不毛な同質感、共有感」に対する拒否反応じゃないかなと、自分の志向性に言葉を与えてもらったような気がしました。
言い換えれば、なぜプロシューマ達の同質感、共有感を「絶え間ない不毛」と(無意識に)見なしているのかという命題を明示してくれたという感覚です。
この命題を少し分析すると、自分自身も強く(しかし表層的に)持っている「プロシューマー的なユートピア」幻想に対し、自分自身が(少なくともそのユートピア的プロセスに対して)直感的にNOと感じているため、同様の価値観を持っているプロシューマ達との同質感・共有感を維持できてないのではないかと感じました。
というか、「プロシューマー的なユートピア」についての対話を、制度や技術のレベルでの話だけでなく、権力や自由や宗教といった人間にとってより本質的なレベルで話できる機会があまりないことが、彼らと同質感・共有感を維持できない理由なのかもしれない。
昨年末に酒宴をともにした空間デザイナー兼抽象画家の人との会話は楽しかった。「プロシューマー的なユートピア」の答えは、現状のプロシューマ求道者たる技術ギーク以外の人とのコラボレーションにあるような気がする。
こんにちは、あけましておめでとうございます。
「絶え間ない不毛な同質感、共有感を超えて」っていう言葉に反応してコメントしてます。
私自身を振り返って、研究者コミュニティにどっぷり浸かる気になれなかったり、ブログやmixiが長く続かなかったり、ハマっていたtwitterでfollow相手を増やした結果、twitterから足が遠ざることになったりしたのは、プロシューマ達同士の「絶え間ない不毛な同質感、共有感」に対する拒否反応じゃないかなと、自分の志向性に言葉を与えてもらったような気がしました。
言い換えれば、なぜプロシューマ達の同質感、共有感を「絶え間ない不毛」と(無意識に)見なしているのかという命題を明示してくれたという感覚です。
この命題を少し分析すると、自分自身も強く(しかし表層的に)持っている「プロシューマー的なユートピア」幻想に対し、自分自身が(少なくともそのユートピア的プロセスに対して)直感的にNOと感じているため、同様の価値観を持っているプロシューマ達との同質感・共有感を維持できてないのではないかと感じました。
というか、「プロシューマー的なユートピア」についての対話を、制度や技術のレベルでの話だけでなく、権力や自由や宗教といった人間にとってより本質的なレベルで話できる機会があまりないことが、彼らと同質感・共有感を維持できない理由なのかもしれない。
昨年末に酒宴をともにした空間デザイナー兼抽象画家の人との会話は楽しかった。「プロシューマー的なユートピア」の答えは、現状のプロシューマ求道者たる技術ギーク以外の人とのコラボレーションにあるような気がする。
ありがとうございます。僕がログした内容をちゃんと読んでいただけて光栄です!そうなんですよ。
「現状のプロシューマ求道者たる技術ギーク」ってすごい当てはまる言葉かも。(僕に。。)
やっぱりもうすこし外の領域の人と関わらないとだめですよね。
中原