ピエール=ジョゼフ・プルードン、 2024、 所有とは何か: 講談社 について記載する。一応、「書評」とは書いているが、まぁ、査読があるわけでもないので、僕個人の関心に引き寄せて思ったことを書く。詳細な解説は、訳者の解説が分かりやすいのでそっちを読めばよいだろう。
本書は、2025年現在の人類学や社会学の成果を踏まえると、それほど真新しい理論が展開されるわけではない。ピエール・クラストル、デビット・グレーバー、ジェームズ・スコットなどの人類学の調査を踏まえた議論を経験してみると、当然ながら古臭く見える。本書の初出が、1840年であり、プルードンの生きた時代が1809-1865年であることからすれば、これは仕方ない。社会学の学祖をデュルケーム(1858- 1917年)、人類学の学祖をマリノフスキー(1884-1942年)とざっくり考えても、当時は、「社会的なもの」を政治・経済と独立した力能(?)のある論考の対象と名指しするのは難しかったのではないか。それをふまえても、訳者が指摘しているとおり、プルードンは、かなり社会学者的な関心も持っていたように思える。社会学者プルードンについては、たしか、『未来のプルードン——資本主義もマルクス主義も超えて』において、的場 昭弘が記載していたような。
プルードンと人類学的視点との繋がりはどうだろう。たしか、デヴィッド・グレーバーが、『民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義』において、ルソーのような啓蒙思想家のアイデアは、新大陸への旅行者を経由して、非西洋から剽窃されたものだ、といった批判をしていたと思う。プルードンにも、同じ傾向があるのではと、邪推してしまう。
その具体的な記述は、「才能と金は通訳不可能な量だからである」(p185)といった、尊敬と富をまったく区別しようとする視点や、5章第一部の人間と動物の道徳的感覚についての記述である。尊敬や名声が、物理的な富や暴力手段に結びつくことを抑制する風習や制度については、もうすでにさまざまな人類学の成果が挙げられる。また、人間と動物の社会の区別を緩くして、ある種の類比として理解しようとする視点も、人類学や人文地理学(クロポトキンとか、エリゼ・ルクリュ)の議論ではおなじみのものと思われる。これらの考え方がすべて、プルードンの独創であるとは考えにくいのではなかろうか。とはいえ、訳者が書いている通り、プルードンには、人類学発展以降のアナーキズム(アナルコ・コミュニズム)が良くやってしまう、素朴な(原始)共同性への期待はほとんどないので、その点は留意すべきだろう。
さて、本書を、現在の日常の文脈のなかで、どう活かせばよいだろう。現在の文脈とは「色々ある」と思うが、ざっくり言えば、各国の政治的分断とか、テクノ封建制的状況(ヤニス・バルファキス)、気候変動危機、ウクライナ・ガザのような紛争がある状況ということである。この文脈で、少しだけ、アナルコ・コミュニズムはある種の流行を見せているように思える。
東側の社会主義・共産主義的体制が崩れて、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』のような状況で楽観できるかと思っていれば、この状況である。そこで、そもそも所有も共同体も否定するというプルードンの考え方は、大前提として聞くことができる。「占有を維持しつつ所有を消去せよ。」(p369)という主張は、分からなくもない。あるいは、「生きるために働くのは必要である。それは権利であり、義務でもある。」という認識、とりわけ「働く」=権利という認識は、大いに賛同できるものである。(ここで、「働く」とは、単にハンナ・アーレントが区別する「労働」だけではなく、多様な活動を含むものと理解できよう)問題は、どうすれば、そうできるのか?そのようなアソシエーション(共同体でなく)を、漸進的に実践できるのか?ということだ。
200年近く前の本なので、当然本書には、それに対する運動論的な答えがない。ここで、僕が思いつくことは、ごくごくささやかな認識論?言葉遊びのレベルの批判的実践に留まってしまう。
実践としては、「所有とは盗みである」の論点を、ひと先ず現代の個別の職業人の生産手段の所有/占有の範囲に絞って議論・実践した方が良いと思う。例えば、デザイナーの人々が、クリエイティブソフトウェアの占有を不可能にする状況(ようするにアドビのサブスクビジネス)に対しては、連帯と対抗に向けた運動が、いっそう必要なのではないか。(すでにあるけど)あるいは、「スマート農業」の推進によって、農業機械の占有が、技術的に阻害される状況への異議申し立てが必要になると思われる。(これにはいわゆる「修理する権利」「技術の道徳化」といった議論が関係する)
生産手段の所有(独占)、生業の手段の所有(独占)に対抗して、占有を肯定することは、今日において、ようするにテクノ封建制への対抗とほぼ同じである。しかし、これがなかなか難しい。具体的な例を挙げれば、アップルやアドビの新製品・新機能が大好きなデザイナーの友人が、月額課金でのみ利用できるAI機能を用いて実現できるある種の仕事を誇って、それを利用できない人々を見下す(「あれはプロの仕事じゃない」と言う)場合に、どう応答するかといった難しさである。他にもさまざまなパターンを挙げることができよう。例えば、効率的なAIトラクターの生産性を誇る農家や、レジの無人化を推進する小売店の店主などなどである。彼らは、しばしば、DXしない/できない生産者の市場からの撤退を、公共善と考えている。
要するに効率化・スマート化・自動化・無人化といった価値観にどう対抗するのか?ということである。ここで、ある種の所有の蓄積がなければ、イノベーションは起こらず、したがって効率化もされないのだから、所有(独占)は必要悪として正当化される。よって、この段階で求められる運動は、テクノ封建制の領主に対して、適切なサブスク料金を求めるといった労働運動?消費者運動?、ユニバーサル・ベーシック・インカムだけになってしまう。おそらく、ここが罠なのだろう。「ある種の所有の蓄積がなければ、イノベーションは起こらない」 これは、恐らく神話なのだ。実践として、この神話を廃棄する必要がある。
卑近な例としては、やはりデジタルプラットフォームに、私たちが創作したデータの蓄積と再利用を許してはいけないと思う。LLMが学習したデータは、デジタルプラットフォームが創作したものではない。したがって、「LLMの所有(独占)は盗みである!」としか言えまい。あるいは、デザイナーや社会学者、人類学者が、フィールドワークして発見した機構や風習、習慣、理論は、彼らの創作物とは言い難い。したがって、「論文・特許・理論、それは盗みである」と言えるかもしれない。だから、知的なものの所有(独占、グローバルエリート)に対抗するには、調査に応じないことが一番良いと思う。「信頼(ラポール)は盗みである。」
ここで、気鋭の救世主たるデザイナーは、「それでは社会が発展しない」といって、自らの立場と調査・開発を正当化しようとするだろうが、本当に発展しないのだろうか。フィールド(他者が占有した空間)において現に実践されていることは、放置すれば、そのまま発展するのでは? 人類史をみれば、特許化されていない破壊的イノベーションなんて星の数ほどある。(例えば、この「言語」が好例である)人類は大半の時間において、才能を所有(富)に変換する経路を絶ってきたのだから、他人の工夫を覗き見するためのフィールドワークは、完全に盗みでしかないんじゃないかな。しかし、それでもデザイナーは、自分の発見(例えば他人の失敗や苦しみの観察後に分かった事実)の所有を主張するだろうけど・・・
ここで「知的なものの所有」(占有でなく)に対抗するために、別のイノベーションのイメージを喚起する必要があるだろう。それは、たとえば、グレーバーが例示した「アドニスの庭」のようなイメージとなるかもしれない。おそらく、農耕のイノベーションには、食料危機に直面した英雄的才能が実行した「まじめな農耕」が寄与したというより、遊戯的農耕の方が寄与したのではなかろうか。実際のところ、新石器時代以前において、農耕をするのもしないのも、生活する人々の気分次第だったのではないか。
そんな視点から、現在の状況を振り返ると、なにやら実感の乏しい稀少性や必要性に迫られて、ひっきりなしに、慌ただしく、効率化・スマート化・自動化・無人化が求められ、それによって生業の手段の占有が不可能になりつつあるように見える。僕らは、働く権利を切り崩されている。だからまぁ、実際できる運動としては、稀少性・必要性が主張されたときに、それを無視して遊戯的な「働き」をできるかどうかによるのかもしれない。よく、わからなくなったな。。。 しかし、まぁ、他人の(考える)仕事を奪っておいて、その様式を知的に所有しようというあらゆる行動は、プルードン流に「盗み」といったほうが良いかもしれない。ブーメランとして戻ってくるけど。先ずは、他人が働くことを、尊重しようと思う。