書評 黒田宣世『「ヤマギシ会」と家族』

黒田宣代、 2006、 「ヤマギシ会」と家族: 近代化・共同体・現代日本文化: 慧文社 を読んだ。

まえがき・序章 ヤマギシ会についての解説。調査方法は参与観察と資料調査、アンケート。分析枠組みは・・・ちょっと複雑で分からない。『反社会学講座』が引かれる。マートンの中範囲理論に言及される。まぁ、そこまでグランドセオリーは作れないようねという言い訳?中国の韓村河にも行ってる。

第1章 ここで使用される概念定義。「共同体」ではいっぱい出てくる。テンニース、マッキーバーなど。日本の理論では北原淳などが引かれる。本書における「共同体」=「歴史的には近代化という社会変動を契機として何らかの共有の意識や思想が前提となって、個人の意思に基づきつくられた、あるいは選択された組織集団であり、実際に自体として共同生活を営み、財産・家計を共有し、生活現場が顕在しているもの」である。

「文化」「文明」「社会」についても概念が検討される。。。長い。脱落した。

2節では共同体の小史が展開される。ここはレビューとして面白い。オーウェンの試みや、アーミッシュ、キブツなどが参照される。中国の共同体もいっぱい出てくる。日本も概観される。新しき村や奥部落など。共同体の類型については再び北原淳が引かれる。著者は3つに分ける。宗教的・社会主義・現代型。日本の共同体はほとんど現代型だそう。

第2章 そして、ここで現代型共同体の誕生契機について概念整理? 難しい。挫折気味。ようするに「近代化」「脱近代化」と現代型共同体の誕生は関係がある? 家父長制家族の解体が強調されているような。

本書の「共同体」と「近代化」への見解

現在、日本は様々な面で「近代化」を卒業し、「脱近代化」への移行を願っている。しかし、なかなか「脱近代化」へと進めない。「近代化」によって経験した便利で快適な生活環境を手放すことは難しい。そこで、ある一部の人々は、「脱近代化」を目指して現代型共同体を作ってゆく。

本書、p90

第3章、第4章は具体的な調査結果。本書の山場。

終章 ヤマギシ会は大きく3段階で変化してきたことが書かれている。当初は、農民を中心にした弱者救済のための集団。次に1960年代、学生運動などカウンターカルチャーの受け入れ。次に1980、1990年代の教育・環境・消費者運動、1990年代以降は<場>と依存できる<他者>への希求といった変化である。

ジェンダー・疑家族の視点からも批判が加えられている。「男性への依存から女性を解放したと思われる共同体だが、それが男女同権に結びつくとは言い難い」

今日的魅力(2006)についての記載あり。顕在的参加理由=環境・教育 「今日のヤマギシ会の魅力とは、一言で「自然のなかの大家族」というようなやすらぎとしての「場」への心理的回帰といったようなものではないだろうか」  潜在的参画理由=「一体感」「私探し」 「彼(彼女)らは存在証明を得るために、ヤマギシ会という「拡大家族的な空間」へ向かっていくのかもしれない」

中原の感想 他の脱会者の体験記や、ジャーナリストのルポよりは俯瞰的な視点が得られる。近代化・脱近代化と現代的共同体の成立という議論は、2025年では驚きはないが、説得的だと思う。ヤマギシ会の最近の入口が、環境・教育・家族であるってのは、今日でも失効していないのでは。そこは、まだ運動的なマグマがあるような気がする。

本書を超えて知りたいのは、ヤマギシ会がそれほど「先鋭化」しなかった理由だな。早期にカリスマが死亡していて、ほとんど営利団体のようになったことが大きいのだろうか。(実は先鋭化していた?) 

しかし、実顕地の3つのタイプの内、「行政村をそのまま残しながら再生していく村」のタイプでそれほどコンフリクトが読み取れないのが不思議である。あるいは、豊明実顕地のような巨大タイプであったコンフリクトが、超エスカレーションしているように見えない理由がしりたい。(実はしていた?)

実際のところ、共同体は社会理論というより、ある種の起業家が行う、ソーシャルイノベーションのようにケーススタディするべきなんじゃないかと思う。実際のところ、カリスマが死亡した後の拡大については、中興の祖の経営的手法が一番重要な要素だったんじゃないかしらね。


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