書評 カル・フリン『人間がいなくなった後の自然』

カル・フリン、 2023、 人間がいなくなった後の自然 東京: 草思社 を読んだので書評する。

全体としては、さまざまな理由(経済崩壊や原発事故、戦争)によって人間がいなくなった場所でのフィールドワークから書かれた文章。かなり学術的文献の引用はあるが、これ自体はあまり学術書の体裁にはなっていない。引用は生態学や地学?、古生物学の文献が多い印象がある。不思議な本。(こういう表現のスタイルを何というのだろう) 「新時代の「環境人文書」」という売り文句が書かれている。直感的にはかなりディープエコロジーに寄った本だと思われる。

第一部は、人間がいなくなった場所が、再野生化するという話が中心。人間がさまざまな理由で忌避する場所、不気味で危険だと考えるような場所が、その理由によって人間の介入を妨げて、他の動植物の避難所になっているという論述が展開される。

第二部は、人間がいなくなったと見なされるような場所に、留まる人々に焦点があたる。荒廃都市に取り残された人、その維持に勤しむ人、そこに逃亡してきた人が語られる。ここでの趣旨は、「見捨てられるということは、別の意味では、道徳的抑制からの解放であると言える」(p158)ということだろう。

第三部は、人間がいなくなった場所に取り残された植物が、外来種として生態系を激変、あるいは破壊してゆく様子が描かれる。また、同時に、取り残された家畜が、さまざまな意味において変化して、「再野生化」あるいは「非家畜化」したりしなかったりする様子が描かれる。ここでの著者の意図は、乱暴に要約しえしまえば、人間による動植物の移入や、在来種の保護活動は、それほど上手くも行かないし、倫理的にも明解ではないということか。生態系なるものは、人間の手に負えるようなものではない。

第四部は、圧倒的な火山活動によって、生活が破壊された場所が描かれる。その破壊は、「人間が制御できる」という想像を大きく超えるもので、宗教的な終末論に接続する。以降は、気候変動と終末論、終末に魅入られる人々、終末を恐れつつ期待する人々が描かれる。ようするに終末論の議論が展開される。

中原の感想: 著者は、引用される各種の終末論について、「私は彼らの結論を受け入れることができない」(p349)と書いているが、この部分は、なかなか微妙なのではないだろうか。明らかに、著者は、見捨てられた場所にいる時、安らぎを感じているように思われる。著者は、やっぱり終末に魅了されている。この微妙な立ち位置に僕は共感できる。見捨てられた場所で、再野生化する動植物や人間たちは、「暗い風景の中で燃える松明であり、時に寂しく孤独な世界における希望の灯火なのだ」(p350)というような希望に魅入られている。

問題は、このように魅力的な終末を否定しながら、どうやって魅入られ続けるのか?ということである。終末には恐らく、古今東西の強烈な反乱や社会運動、社会変動を促す力がある。(例えば、千年王国思想や弥勒思想、太平天国の乱とか)しかし、それは短期的にはカルト化や、先鋭化、極端な暴力が伴うものである。(この辺りは、青土社「現代思想2025年11月号 特集=「終末論」を考える」にさまざまな論考がある)

恐らく、気候変動がもたらす危機感には、どうやっても魅力的な終末の暗く寂しい希望が到来すると思うが、この力を失わないまま、極端な暴力を避けるのかが良く分からない。(近年は、終末ファシズムという論点があるらしい。)社会学者の大澤真幸さんが、前出の現代思想で、「終末がすでに到来している前提で、終末論をうけとめる」といったような対処方法を書いていて、個人的には共感したが、その程度で、カルト化は止まるだろうか。

かなり昔から、この手の既存の人間的秩序(文明)の崩壊を期待しつつ、自然の中に希望を見出す傾向の思想(たとえばルソーとか農村青年とか、ロマン派とか、ヤマギシとか)が、個人的な自由とか解放とかを謳いながら、結局は全体主義的なものの苗床になるっていうパターンが多すぎて、どうしたらよいのかと思っている。それほど、この手の思想には魅力がある。本書も、そのパターンに一部、足をすくわれているようにもみえる。(けれども、記述の仕方は、二項対立を超えようとする分厚い記述のような・・・ANTとか、そういう感じの)

たぶん、本書の見捨てられたような場所において、1人ないし、少人数で暮らすことに慣れるべきなんだろうけど、ほとんどの人々は、それほど強くない。他の動植物や気候が恐ろしくて、寂しくて、すぐに派閥とか社会運動とか学習会なんかをしてしまう。そこに罠があるんじゃないか。黙って文明から立ち去るのが、まぁ、難しい。どうしたって、文章書きたくなるしね。(この文章も例外でない)

何かを書くとすれば、終末がすでに到来していると考えながら、ほとんどの人間から見捨てられた場所で暮らすことを、分厚く記述していくんじゃないかしら。熊との邂逅とか、退屈な移動時間とか、ハクビシンの侵入とかについて。あのハクビシンは、僕の生活に連なるものであって、対立するものではない。とか?

ああ、もう一つ、具体的に、より深刻に懸念すべきは、やっぱりダークツーリズムだな。正直な話、終末が先鋭化するより、終末ですらネタとして消費されるという結末の方が、現実的で悲惨な気がする。たぶん、人間は、融解する極地の氷河や、海面上昇によって水没した村落、福島を、消費的・文化的なコンテンツとして使い捨てにできる程度に浅ましいんじゃないかしら。本書も、まぁギリギリだなぁ。ギリギリアウトな気がする。結局、移動する人々が、終末的場所を訪れたとしても、それは「映えるネタ」なのであって、「終末がすでに到来していると考えて生きる」ことにはならないだろうな。よって、千年王国運動ですら、この超近代にあっては、社会変動の力にはなりえず、サブカル化するのか。。。恐ろしいな。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: