書評 エスコバル『多元世界に向けたデザイン』

エスコバル・アルトゥーロ、 2024、 多元世界に向けたデザイン: ラディカルな相互依存性、自治と自律、そして複数の世界をつくること ビー・エヌ・エヌ社 を読んだので書評する。エスコバルは、1952年、コロンビア生まれの人類学者。本書以外の日本語で読める文献には『開発との遭遇:第三世界の発明と解体』(新評論、2022)がある。いわゆる批判的な開発人類学の第一人者である。

序文と謝辞 ここで大枠の問題設定がされる。「現代の危機とは、家父長制の西洋資本主義近代という文明モデルの危機である」という見解が示される。その文明モデルからの移行のためのデザインが目指される。本書の目的は、デザインに対する存在論的アプローチを発展させることである。

序論 開発から多元的世界へのビジョンが示される。イリイチのコンヴィヴィアリティが引用される。デザイン理論としては、スペキュラティブデザイン、クリティカルデザイン等が参照される。

1章 デザインの新しい役割や実践様式を想像するような膨大な文献のレビュー。バウハウスからインタラクションデザイン、デザイン思考、アーバニズム クリエイティブクラス批判まで。要約すれば、さまざまな要因の結果、専門家によって実践される従来型のデザインから、ユーザー中心で状況に即し、インタラクションかつ協働的、参加型で、人間の経験や人生そのものの生成に大きく焦点を当てたデザインへと向かう傾向がみられる。

2章 人類学・生態学・建築・都市論といった理論的動向とデザインに関する議論が概観される。ようするに存在論的転回の潮流について。デザイン人類学のレビューも。有名どころではティム・インゴルド、ストラザーン、ハラウェイ、ラトゥールなどが引かれる。フーコーからの影響が大きい。国際開発分野におけるデザインの導入も検討される。デザインの脱植民地主義が検討される。参加型のデザインが、先鋭化してゆく過程がある。ポリティカルエコロジーについても検討される。ANTやmore than humanの議論も引用される。グローバライゼーションは、関係的で非二元論的な世界を犠牲にして行われてきた。ラテンアメリカの開発の事例が様々に展開される。「一つの世界の世界」という存在論的占領の中で、デザインすることは可能か?というのが本書のポイントである。デザインを文化的・存在論的に再考する必要がある。

3章 これまでの文献整理をへて、デザインへの存在論的アプローチが概説される。二元論への一群の批判が展開される。合理主義とデカルト的伝統への批判が展開される。別名は機械論・還元主義・実証主義(認識論)といったもの。批判の土台は、マトゥーラ&バレラ(オートポイエーシス?)である? 転換点としてのウィノグラードとフローレンスの存在論的デザイン。二元論を指摘すること自体が、それがもつ植民地性を取り除くこのに十分か、という問いにはまだ保留があると認めている。しかし、近代の病理は伝統の病理よりも致命的であることは証明されている。

4章 ここでいよいよ、本書の根幹である「存在論的デザイン」について概説される。モダニティ(近代性)の単一世界存在論による覇権から、社会自然的に編成される多元世界への移行に貢献する手段としての存在論的デザインが提示される。再びウィノグラードとフローレンスが参照される。存在論的デザインとは、「我々は道具とデザインし、道具は我々をデザインし返す」という前提によるデザインと言える?問題ではなく、「ブレイクダウン」という概念が検討される。分散されたデザインエージェンシーの議論がある。まとめると、存在論的デザインとは、・・・11個の特徴としてまとめられてる。(11個は長すぎる・・・)

5章 知的想像力の産物以上の具体的な可能性や実践に言及される。トランジション・デザイン(?近代からの移行のデザイン)のための3つの領域が検討される。トランジション・タウン・イニシアティブ、脱成長、コモンズ。さらに、ポスト開発、ブエン・ビビール、自然の権利など。エンツォ・マンズィーイのデザイン理論、カーネギーメロン大学のトランジション・デザイン・フレームワークが紹介される。ソーシャル・イノベーションの理論と実践も紹介される。

6章 存在論的デザインアプローチとしての自治=自律的デザインの概念を展開する。再びオートポイエーシスの理論が検討される。そしてサパティスタ運動について言及。その他にも南米の自治運動についてさまざまな事例が挙げられる。

結論 これまでのまとめと未解決の問題が列挙される。未解決の問題は、モダニティの問題、合理性の問題、「伝統的共同体」はデザインするのか?という問題である。「未来」の占有についての問題提起がある。

中原の感想 正直、分かりやすいとは言えないので、詳細の議論が僕にはついて行けない部分が多い。人文学で幅広く言われている存在論的転回から、デザインを問い直すという主張は、ものすごく共感する。『開発との遭遇』の議論から言えば、当然そうなるだろう。マーシャルプランや新植民地主義、開発といった事象を批判的に見れば、どうやっても主体/客体の認識論に抵抗しなければならない。そこから広い意味でのデザインを救い出せるのだろうか。

しかし、身近な日本の農山村の開発を振り返ると、生活改善とかコミュニティ・デザインとか地域デザインを政策立案している人々が、存在論的転回できるかと言えば、そうとう先の話になるような気がする。単なる伝統回帰の罠もある。しかし、それに向けて、具体的な研究を進めるべきだろうなぁ。。。遠い世界の話で終わってはいけない。やらねばなー。


投稿日

投稿者:

タグ: