主体性に回収されない暮らしについて

自分でも漂流している感覚がある。いつまでたっても、専門性や生業が定まらないような気分である。多くの人がこの感覚を持っているのかもしれないけれど、僕はどうやら「これをやって生きていく」とか「これが大事だ」といった一貫性を説明するのがとりわけ難しい性向をもっているのかもしれない。(いや、一貫性の説明なんか要らんのかもしれんけど、社会生活上は、説明すべき時があるのです。。)

そんな中でも、いま(ほぼ金にもならない)博士論文を書いていると、何を求めてここまで来たのかということが、ぼんやりと見えてくる。それは、まぁ、確か秋津せんせいが、「小農の小宇宙」といった表現をされていたような、ある種の生活や生業、思想、習慣、社会が一体となったような閉じた系(オートポイエーシスのような系)である。この小農の部分を、ハッカーやデザイナー、DIY、MAKER、メディアアートと言い換えても良い。ようするに、具体的な事物と向き合って、自分の手や自分の道具を使って、身近な必要を充たし、その状況を言語的・非言語的な手段で再生産する文化をもっているような営みのことである。

だから、僕は多分、個別の人々の高級化や専門化、洗練みたいなものには全然興味がない。優れた小農やメディアアーティストをカリスマとして称揚するような方向には全然行かない。人類の大半を、単なる消費者・聴衆・観客にしてしまう開発・仕事など、なにが面白いんだ。だから逆に、たぶん、社会調査が好きだし、妙な人々による妙な自己充足的な実践を知る事、それが可能であるような社会がとても好きだ。

それでまた、そのような人々を、当たり前であるが、ある種の二元論でもって、主体/客体における主体性のある人々として扱うことにも、ゲンナリしている。「小農の小宇宙」を主体性で括ることには抵抗しなければならない、っていう事は、おそらく、ほとんどの農村社会学者や文化人類学者にとっては、当たり前のことだとは思うが、しかし、これが現在の日本の農山村では、とみに難しい。「ポスト植民地主義ってなに?」という状況だ。マジで「村民の主体的な行動がない」みたいに言われる。(そして、これは、開発の結果としてみると、一部正しい。)だから、残念だけど、この好きなものを目指して、歩んでいくしかないような。

しかし、これを説明するのが難しい。あるいは、「小農」という事だけに区切れば説明できるかもしれないけど、これまで、農についてだけ仕事してきたわけじゃないから、どうみても漂流しているように見える。主体性に回収されない暮らしっていうと、「ああ、丁寧な暮らしですね」とか言われそう。学術書ではいっぱいあるけど、日常の中で説得的な言葉にするのが難しい。


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