ファーガソン・ジェームス、 2020、 反政治機械: レソトにおける「開発」・脱政治化・官僚支配 水声社 を読んだので書評する。書評というより、感想メモ。私は今のところアフリカ大陸に足を踏み入れたことがないし、レソト、アフリカについて正しいと思われるような知識を持っていない。しかし、「開発」・デザインへの関心があって、本書を読んでいる。存在論的デザイン研究の一環として。
まえがき 「開発」が世界に対する私たちの思考の中心にある。開発とは何か?には歴史的分析と作用に関する分析の2つのアプローチがあるが、本書は後者。フーコーの「装置」概念を援用して、開発「装置」がどう作用するのかを分析する。その作用は端的に言えば「反政治機械」という表現に集約される。本書は開発イデオロギー批判ではなく、開発「装置」の生体解剖の試みである。
1章 先行文献の整理の章 先行文献はイデオロギーの観点から2つのグループに分けることができる。1つ目は「開発」装置を普遍的な問題を解決する実用的道具とみなす伝統にあるグループ。ようするに政策科学?(はっきり書いてない) 2つ目は、ラディカル学派。政治的告発のコンテキストで論点が扱われる。具体的な援助のプログラムが何であれ、搾取は「資本の理論」(再生産)によって説明される。
本書の立場と枠組みは、ポール・ウィリスの「ハマータウン」との比較であきらかになる。ハマータウンの分析の要点は、「皮肉にも再生産が抵抗によって達成される」ということ。本書の意図は「農村開発」という制度がその公的目的に寄与しないことを非難するのではなく、それを分析すること。「開発」という語は、2つの異なる意味(近代化と貧困の除去)で用いられている。
本書の理論的出発点 人類学的研究である。構造は独り歩きし、人々の意図的な行為を凌駕しうる。「開発」プロジェクトは権力に仕えるかもしれないが、それは「権力をもった」行為者がまるで想像しなかったようなやり方で行う。そしてその権力は、主体として捉えることはできない。
2章 世界銀行の「開発」言説の分析 「開発」言説は学術的な言説とは区別できる。ズレから「開発」言説の構築について探求している。「学術的言説から「開発」言説へと移る時に代わるものは、(中略)制度的コンテキストである」(p116)「学術的分析は、そこに「開発」期間が入り込む場所を提供しない限り、つまり開発期間がとりかかろうとしている介入の種類にお墨付きを与えない限り、開発機関にとって利用価値がない」(p117) 学術的な言説とは矛盾して、「開発」言説はレソトを「伝統的な自給自足の小農社会」と対象化している。
3章 具体的開発プロジェクトの構造、歴史、目的の概略
4章 調査地概要
5章 牛の神秘性についての分析 レソトの牛の諸慣行については理解が難しい点がある。これまでの説明は、功利主義、2重経済理論の説明であった。本書の議論は、家畜をめぐる諸慣行について、「牛の神秘性」に帰着させるのではなく、それを解き明かすことである。財としての牛の扱いには、ジェンダー、共同体(貸し/借り)の間に葛藤がある。婚資としての牛があり、そこには世代の葛藤もある。牛の諸慣行「牛の神秘性」は出稼ぎ賃労働(近代的、資本主義的な労働供給市場)に付帯している。葛藤と衝突は、「伝統」の再創造の過程の一部である。
6章 家畜の開発 開発言説では、販路、牧草地管理、牧草地改良、自給用耕地の面積減少、秣の拡大が目指された。失敗した。ここには2つの矛盾がある。1つめはターゲット層の想定(「伝統的な自給自足の小農社会」)である。実際には地域の村人たちは近代的、資本主義的な労働供給市場に全員が深く埋め込まれている。2つめは開発プロジェクトがレソト政府と道具のひとつであることを見落としたことである。プロジェクトが大きな効力を発揮する措置が必要となるが、権力を唯一もつ人々にとってそれは利益にあたらないものであった。
7章 開発における「統治性」について。開発の言説では、政府が常に権力を行使する機関であるという事実はほとんど考慮されていない。サービスの提供/利害の道具という2種類の機能がある。開発に際してそこに現存するシステムは、プロジェクトの対象であるというよりは、プロジェクトに働きかけている。プロジェクトの地方分権化計画は、レソト政府の政治的実現によって潰されている。「開発機構」が演じようとする役割には根本的な矛盾がある。期待されていること(社会経済的変化)を実現するために、「開発」プロジェクトはそもそも期待されていないこと(政治的抗争への関与)に取り組む必要がある。
8章 前章までの続き、農作物開発とその他のプログラム(村落配給基地、住民参加、植林地)について。周知の技術投入のパッケージを適用することによって農作物生産に革命をもたらすことが出来るという前提は自明とされ、反対などありえなかった。しかし、当の「農民」は、農業にさほど関心を抱いておらず、実際、自分たちを「農民」であるとも考えていなかった。ほかの解決策とは何か=土地保有法の改定。「レソトの山岳部に点在する小さな畑は、農作物を生産するよりも重要な役割を果たしているのである。それは、潜在的労働力を土地につなぎ止め、「余剰」労働力が都市に流入してくるのを防いでいる」(p346)「住民参加」が単純な機構改革として政治を排除した形で導入されるという考えがいかにナイーブなものであったのか(p354)プロジェクトの職員は、植林地は「村落」のものだとか「住民」のものだとか語る事が多いが、村落ではそのようにみなされていないことは明らかである。(p362)
9章 結論部分。開発は失敗だったが、その「副作用」は広範囲に影響を与えている。開発言説において政府の目的はサービスの供給とみなす傾向があるが、権力を巡る問題は簡単に片付かない。プロジェクトの中心的課題の一つが反対勢力の拠点である山岳部を政治的にコントロールしようとするものであった。プロジェクトは、道具となるような役割を果たしていた。開発装置の「道具的効果」には2つの側面がある。1つは官僚的な国家権力を拡大するという制度的な効果である。もう1つは、貧困と国家双方を脱政治化するという概念的、イデオロギー的効果である。ここで「国家」とは単一の道具的実体をもつものではない。「ちっぽけな権力を行使する小役人たちがはびこると主張したかった」(p398)
エピローグ それで結局、「何をするべきなのか」 貧困はあるではないか。「開発」が答えでないとすれば、何が答えだというのか? この問いは本質的に政治的なものである。よって、それよりも先に答えるべきなのは「誰によって」という問いである。
「彼らは何をするべきなのか」ここでいう「彼ら」を解体するべきである。「民衆」は、未分化なひとつの群衆ではない。「彼らは何をするべきなのか」という問いに対する一般的な答えはこうだ。「それなら彼らはやっているよ!」(p408)
「私たちは何をするべきなのか」 「私たち」とは誰を指すのか? 研究者であるとすれば、「応用型」の研究者たちは、外に出て泥まみれになって「開発」機関のために働こうとする意志はあるが、それにたいして「学術型」の研究者は自らの象牙の塔に留まり、自らの手や良心を汚そうとはしない。しかしこれは本当に唯一の選択肢なのだろうか?(p414) 重要な関与の仕方は、自らの社会に責任ある市民として政治参加することである。しかし、否応なく「専門家」として関与することになる。しかし、専門家に、役に立つ役割が務まるかどうかについては状況次第である。そして、おそらくそうした仕事(関わり方)はそれだけでは生計を成り立たせることはできない。それどころか、職業にもキャリアにも結びつかないだろう。(p418)
中原の感想 レソトの調査については、現地の知識もないし、ほとんど比較研究を読んでないので何とも言えないが、古典として一旦信じるしかない。学術的言説と開発言説の分化については、明け透けで、誠実な分析である。ようするに「開発」を批判的にみるような分析、副作用についての分析は、面白いが、就職できないし、ポジションを失う。しかし、開発を巡る事物の関係は、概ね政治的闘争の現場なのである。だから、政治的闘争を「 」に括るような開発への分析や言説は、根本的に矛盾していて失敗する。が、それは、開発言説を作る仕事にとって、なんら失敗ではないのだ。これは、大半のデザイナーへの警句になるだろうな。「自らの社会に責任ある市民として政治参加する」ことは、専門家の生計を成り立たせることはできない、と言う結論は、大きく同意する。しかし、では、どうやってほんとうの仕事をしながら、生きれば良いのか。