書評 ワッカリ―『ポストヒューマニズムデザイン』

ワッカリー・ロン、 2025、 ポストヒューマニズムデザイン ―私たちはデザインしているのか? 明石書店  を読んだので書評する。

1章 理論的枠組みの提示? 人間中心主義に囚われたデザインを問い直す試み。人間以上(more than human)の動向が参照される。ハラウェイの議論が参照される。ウィノグラード&フローレンス、エスコバル、ウィルズの存在論的デザインが議論される。ハイデガー、フェルベーク、ラトゥールらの技術哲学、科学哲学が参照される。<モノ>についての概念規定がされる。モノ=人間と非人間の両方によって生みだされた非人間。モノ概念について、スツール状の図式化がなされる。モノ=媒介技術・生気的物質の集合体・関心とケアの問題

2章 ノマド的実践 本書においてデザインとは学問でなく、ノマド的実践である。以降、ノマド的実践の説明・・・ よく分からない。ノマド的実践の3つの特徴=<志向性の多重性><状況に置かれて知っていくこと><ノマディズム> ドゥルーズ&ガタリへの言及が多い?

3章 アーティファクト、オブジェクト、プロダクトのデザイン ?? 謎。<モノ>を3つのカテゴリに区別して論じている?

4章 媒介技術についての議論。アイディとフェルベークが参照される。アッサンブラージュについて。

5章 生気的物質の議論。ここは全然わからん。。。ベルクソンを読んでないとダメなのかもしれない。ようするにモノの複数性とエージェンシーを強調する章なのか。 

6章 デザイナーは経歴書である。「経歴書」は本書の重要な概念。「経歴書とは人間と非人間の識別可能な生命力(創造的実体)であり、この生命体は世界のなかに自らを構築して刻み込むものである」(p227) 「デザイナー」なるものの再定義を試みている。

7章 デザイナーの協議体。「協議体」も本書の重要な概念。「協議体は人間と非人間の集合体であり、この協議体からモノのデザイナーが集められ、モノのデザインや経歴書の形成へと進展する」(p265) これはラトゥールの「モノの議会」みたいな発想のような気がする。これ以降、反経歴書への批判が展開される。「デザイン課題」「ユーザー中心主義」が批判される。その後、批判を踏まえて、協議体が具体化され、レパートリーが示される? 抽象的すぎてわからない。おそらく、いわゆるデザイナーの仕事のような活動の発生要因の再定義を試みている?

8章 ともにデザインする。最終的に本書で希求されたものは、人間デザイナーの「謙虚さ」・・・ 著者自身、ポストヒューマニズムデザインが上手くいくとは思っていない。「私が行ったような議論は近いうちに遠ざけられるだろうし、たまに訪れるにはよい場所であっても、永久に共存することはほとんど不可能だろう」(p321)と見ている。漸進主義(p324)を展望している。

中原の感想 ちょっと昔のフランス現代思想みたいな本かも。深遠なことを書いているようで、実はこけおどしかもしれない。良く分からない。ようする、大筋で、ラトゥールやハラウェイ以降のデザイン論だと思うけど・・・ そこまで複雑に議論する必要があるのだろうか。とりあえず、関連しそうな文献を全部ぶち込んだ感じがするけど、全体として何が議論したいのか・・・ とりあえず、ノーマン的な「デザイン課題」がダメなのはよくわかったけど・・・それは、フーコーの議論ぐらいから自明なのではないか。

その上で、本書が最後に、謙虚に期待する人間デザイナーの「謙虚さ」に期待できるのかと言えば、ちょっと無理な気がする。巨大な国家プロジェクトへの参加と貢献を、SNSでドヤ顔で喧伝する産業デザイナー諸氏に、それを言っても無意味なんじゃ・・・。あるいは、地方創生において「過疎ビジネス」に奔走する開発主義者に、インゴルド的に「ともにデザインする」なんて言ってもねぇ・・・

この本が役に立つとすれば、そういった「デザイン課題」や二項対立に囚われた産業デザイナー諸氏の有害な仕事の数々を、軽蔑する視線を増やすことぐらいなんじゃないかしら。「それじゃあ、デザインはどうなるのさ!?」と言われれば、ファガーソンが言うように、とうの昔に、開発されるべき「協議体」は、彼らの仕事をし続けているのだと思う。


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