いうまでもなく近年稀にみる天才を失って思ったごく個人的な感想をログする。
今にして思うと、私は、彼が生み出した製品を、嫌いでい続ける努力をしていたように思う。
コンピューターのソフトウェアを作る専門家として、ジョブズの製品の宗教的な魅力から遠ざかろうとしていた。
「もうこの製品でいい。iTunesでいい。iPhoneで満足。」そう本気で思えてしまったら、次に作り出すべきソフトウェアが見当たらなくなるような恐怖があって、常に批判的な姿勢を維持しようとしていた。
批判的であることに努力がいるような仕事は、スティーブ・ジョブズの仕事以外、近年なかったと思う。Windowsにせよ、Androidにせよ、どこか多数決で作られているかのように思えるソフトウェアを批判的に眺めることはとても簡単だ。しかし、ジョブズの製品は、一貫したビジョンがあって、それは夢想的で、宗教的な魅力に満ち溢れていた。
たとえば、私が、コンピューターの専門家として糧を得ていなければ、簡単に彼の夢想の世界に堕ちていただろう。今になって思うと、それはとても幸せな陶酔だったんだろうと思う。
彼が私に教えてくれたことは、広義のコンピューターが、客観的な設計の対象や、多数決によって作られるものでなく、すでに思考や生活の価値を決める哲学や宗教の結晶であるということだ。決して唯一の解などなく、物理的なゴールが約束されていない人工物であるということを私に教えてくれた。
あえて言おう、ジョブズの製品は嫌いだ。嫌いでなければならない。
なぜなら、それは唯一の解などではないからだ。
彼が生命を費やして見せてくれた、すばらしい夢だった。
彼の生活に対する姿勢だった。
私は私で、別の夢が存在しえること、別の宗教が存在しえることを示したいと思う。
この私の小さな努力は、逆説的に彼への追悼になると信じる。
中原