きだみのるは、小説家・エッセイストである。奄美大島に生れ、慶応大学理財科中退後、パリ大学でマルセル・モースに師事した。デュルケームなどの著作の翻訳者としても知られ、当時のフランスを中心とした社会学・人類学を日本に紹介した知識人の一人とされる。本書『気違い部落周游紀行』(1948年)において、東京近郊の村落共同体の持つ日常的な論理を描くことによって、特異な文明批評の観点を確立したと言われる。
この本をまとめるのは、難しい。いわゆる論文のようなかっちりした構成を持った文章ではない。まさに紀行文であり、抽象化や一般化をほとんど含まないからだ。戦後のリアリティを感じる。戦後の民主化なるもの、初の村議会の開催などを通じて、成文法と習慣法が一致していない状況を、微視的に描く手法は、2026年に読んでもまだ新鮮に思える。
感想としては、1948年において既に、近代への批判やポスト植民地主義的な感覚が可能であったという驚きと、とはいえ、その感覚をもったまま「日本の」農山村開発みたいなものが現在でも不可能という無力感である。
なんというか、きだみのるの文章には、端から近代化への義務感というか、「このように発展すべき」といった進歩史観的な視点が感じられない。これは現在の、アフリカなどを対象化した人類学では当たり前であるが、1948年当時の日本の農山村に対して1949年の知識人が、「農山村をより良くしよう」という、進歩的な考えや開発主義的な思想から逃れるのは相当難しいんじゃないかと思う。
翻って、僕が住む2026年の○○〇集落を見渡すと、別にきだみのるが描いたような集落と何かが変わったような気がしない。にもかかわらず、未だに、ムラの英雄たちが行う不思議な行動が、なんらかの介入(ワークショップとか、シティズンシップ教育とか)によって矯正できると、どこか遠くで信じられているようなのだ。もう、いい加減、完全な普遍のようなものは不可能と諦めれば良いのに。。。ヒトとモノの関係性を丁寧に辿っていくならば、どうやってもその地域、その天候に織り込まれた人間の生活と社会編成がある。その関係性の中で、どこか遠くで決められた、一定の思想やイデオロギーは、ある程度影響するけど、完全にそこで生きている人々に振舞いを変えることはできないだろう。
だから、本書は、現代日本の農山村の様子として読むべきだと思う。
あと、本書は、現在の研究倫理的な視点からすると、もう、書けない。そこがある意味で羨ましいなぁと思う。農山村の「ちょぼいち(賭博)」について書きたい学者なんていっぱいいると思うけど。