書評 デュルケム『社会学方法の基準』

博士論文の基礎として、一般的な教科書を超えて、古典の教科書を読んでみる。社会学の学祖の一人とされるデュルケムの著作。「社会学」が固有の領域なるものをそれほど認められていなかった時代に、「社会学」を確立しようという意欲を感じる。デュルケムによれば、社会学が確立するためには、固有の研究対象と研究方法が必要とのことで、それについて書いてある。全体的な印象としては、実証主義者(自然科学からの比喩によって人間の行動を議論しようとする傾向)による先行研究(主に、コントとスペンサー)への批判と、それを引き継いだ基準の提案といった内容。

1章 社会的事実とは何か ここで、固有の研究対象としての「社会的事実」について概念規定される。「社会的事実とは、固定化されていると否とを問わず、個人のうえに外部的な拘束をおよぼすことができ、さらにいえば、固有の存在をもちながら所与の社会の範囲内に一般的にひろがり、その個人的な表現物からは独立しているいっさいの行動様式のことである。」

2章 社会的事実の観察にかんする諸基準 「もっとも基本的な基準、それは、社会的諸事実を物のように考察することである。」実証主義者らしく、ベーコンが頻繁に引用される。「物のように考察すること」の基準は、3つぐらい定義されている? 文章の構造が良く分からない。1「すべての予断を系統的に斥けなければならない。」 2「共通にみられる若干の外部的特徴によってあらかじめ定義されている一群の現象しか決して研究の対象としてはならないこと、またこの定義にあてはまる現象は、すべて同一の研究のなかに包含しなければならないこと」 3「社会学者は、なんであれ、ある種類の社会的諸事実の研究を企図するにあたっては、それらの個人的な諸表現とは別個のものとしてあらわれてくる側面から、これを考察するようにつとめなければならない。」

3章 正常なものと病理的なものの区別にかんする諸基準 この章は、ヴェーバーの価値自由みないな基準を議論したいのか? 「健康かまたは病かの状態の判断を行うにあたっての目安は、(社会)種によって変わる」
「一、あるひとつの社会的事実は、その進化の特定の段階において考察された特定の種の諸社会の平均のなかに生じるとき、その発達の特定段階において考察された特定の社会的類型にたいして正常的である。二、現象の一般性が、考察されている等の社会的類型のなかにおける集合生活の一般的諸条件にもとづいていることを明らかにすることにより、前の方法の諸帰結を検討することができる。三、この事実が、いまだその全体的な進化を完了していない社会種に関係している場合には、右の検証は不可欠である。」

4章 社会類型の構成に関する諸基準 この社会類型というのは、前の社会種と同じもの?? よく分からない。つまり価値判断(正常/病理の判断)をするためには、社会類型を特定する基準が必要ということ? 歴史家・哲学者が批判される。モノグラフも批判される。単環節社会・単純多環節社会・二重に構成された多環節社会といった概念が示される。ここで人類学系の古代社会が参照されている?ような。
「まず、完全に単純な、もしくは単環節の社会を基準としてとり、諸社会の示す合成の度合に応じてそれらの社会を分類することからはじめる。次いで、その最初の諸環節が完全な融合を示すか否かによって、右の分類の内部にさらにさまざまな変種を区別する。」

5章 社会的事実の説明にかんする諸基準 「あるひとつの社会現象を説明しようとする場合、それを生みだす作用原因とそれがはたす機能とは、別個に探求されなければならない。」
「社会的事実の決定原因は、個人意識の諸状態ではなく、それに先立って存在していた社会的諸事実のうちに探求されなければならない」
「社会的事実の機能は、それがなんらかの社会的目的とのあいだに維持する関係のうちにつねに探求されなければならない」
「内的環境は、なんらかの重要性をもついっさいの社会過程の源泉である」内的環境とは、事物と人間。事物のうちには、社会に一体化されている物質的ものばかりでなく、既存の法、既存の習俗、文学的・芸術的作品などのような、すでに先行してなされた社会的活動の諸所の所産も含まなければならない。

6章 証明の実施にかんする諸基準 ここは難しくてよく分からない。。。社会学の基本的な証明方法は、比較的方法もしくは間接的実験。比較的方法にはいろいろ(残余法・一致法・差異法)あるが、共変法が社会学方法として優れている? と考えている?

中原の感想 やっぱり文字通りに社会過程・社会的事実の源泉を、先行する社会的事実と内的環境と考える方法は、トートロジーに聞こえる。既存の法、既存の習俗・・・これこそが、社会的事実なのではないか。であれば、社会的事実を説明するために社会的事実をもちいて、その源泉が社会的事実になってしまう。これは一見、説得力がない。

だから、ここからルーマンの自己言及性とかの議論になっていくのかな。あるいは、オートポイエーシスとか、人類学の分裂生成とか。「共変法」というのは、その布石になっているような気がする。因果で考えるとトートロジー批判されるけど、フィードバックループを前提とすると、自己言及は当たり前だし、説得的に聞こえる。ようするに社会的事実を、因果で説明しようとする方向は必ず失敗するのかもしれない。とはいえ、フィードバックループの中で、ある瞬間、主体的・支配的に見え、原因に見えるような既存の社会的事実もあるしな。。。


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