最近、大学・専門学校で、卒業制作などの講義を担当させていただいている。その際、制作のテーマや領域を決めるためにフィールドワークなどをお願いするのだが、なかなか進まない。そこには分厚い壁がある。学生さんたちは、壁の中に拘束されていていて、そこから興味や関心、認識を外に向けることができていない。
ようするに、簡単にフィールドノートや分析、企画書のなかで、「高齢者」「学生」「AI」「スマートタグ」といった抽象的な用語に、個別具体的な事物やその関係の観察を回収され、見たモノ、触れたモノ、聴いたモノを、思考の外側に置いてしまう。
何度も、「現実のフィールドにおいて、抽象的な「高齢者」などいない」と説明するのだが、それを受け入れてもらうには、そうとうの時間と対話を必要とする。
こんなことは自明だが、なぜ、ここまで拘束されるのか経緯をしりたいと考えている。もう少し言えば、個別具体的な生きている他者を、抽象的なカテゴリに当てはめて論じることを、純粋に「賢い」方法と信じているような振舞いすらある。
・・・もちろん、この文章のように、何らかの状況を個人へのクレームを超えて、共有するためには、ある程度の抽象化・一般化は避けがたいのだが・・・ 「個別具体的な生きている人々を、よく観察しよう」という教育的メッセージを伝えることは、とにかく、とても難しい。