佐藤寛 編、 2023、 戦後日本の開発経験: 高度成長の礎となった「炭鉱・農村・公衆衛生」 明石書店
1章 山田洋二の映画「家族」から高度成長を概観している。
一部 途上国としての戦後日本
2章 石炭産業を開発社会学の視点で分析している。この時代(1945-1962)は西洋出自の近代化理論の枠組みにそった改革が必要だという理論が主流だった時代。パウル・ローゼンシュタイン=ロダンのビッグ・プッシュ・モデルによる開発。GHQによるプロジェクト期と、世界銀行融資を模索する再生期がある。GHQの資金提供にはガリオア基金、エロア基金がある。世界銀行の融資を受けたプロジェクト一覧がまとまっている。有用な電力会社から造船、製鉄、用水公団、道路公団まで。ビッグ・プッシュ=傾斜生産方式で、石炭が増産される。労働者確保が推進された。
1948年、ハイパーインフレに対処するためにドッジ・ライン(9原則)があった。石炭産業は、統制経済から脱却。GHQの後ろ盾を失う。援助漬けによる腐敗があった。1952年にGHQの占領がおわり、主権回復。世界銀行からの支援を模索。融資は実現しなかった。「油主炭従」のエネルギー転換によって衰退する。
章のまとめ ドナー国によって政策が方向づけられる。援助国の内部事情が被援助国に与える影響の強さの好例である。前近代的な要素が残ったまま統制を受けると、自由化後に外部変化に対応する基礎能力が欠ける。
3章 GHQの協同農業普及事業の日本政府の”適応・再編成”について。外部介入による民主化。1947年、GHQに農業会の解散。生活改善の手法は、1グループの育成 2濃密指導方式 3生活改善演示実験室。
章のまとめ 導入初期には強制的な側面もあったが、日本側はそれを受容し、ある意味、適応させながら、農林省、都道府県職員が試行錯誤をしながら制度を再編し、日本型の普及事業を構築してきた。
4章 公衆衛生におけるGHQの介入と変化について(保健婦の事例)。1945年の日本の衛生水準は、世界ワーストレベルだった。乳幼児死亡率・新生児死亡率が1940-60年に劇的に改善する。ドッジラインによる緊縮財政で1949年には予算が削減される。
二部 高度経済を準備したローカルな状況
5章 石炭産業の衰退の影響を、経済資本、人的資本、社会関係資本の観点から分析する章。そういった資本の蓄積を妨げる状況が、開発・発展の中で生まれた? 九州築豊地域の事例研究。80年に渡ってモノカルチャー経済が確立されていた。前近代的な納屋制度が資本の蓄積を妨げている。炭鉱労働者への差別もあった。GHQの傾斜生産法式は、モノカルチャー経済を強化し、閉山後の資本の欠如の舞台装置を用意した。急激に都市化した。GHQの介入でも、2重経済は解消されなかった。その後、ドッジ・ラインによって労働者にしわ寄せがあった。炭住と呼ばれる共同住宅によって外部社会と隔離されていた。生活保護受給もあり、地域住民との心的距離を広げられた。
章のまとめ 2重経済(フォーマル経済とインフォーマル経済の分離)は途上性の証左である。経済資本、人的資本、社会関係資本の欠如は、2重構造の帰結である。
6章 外部介入の開発から、内発的発展へ。生活改善普及事業の農村女性の活動からの章。生活改善普及事業という農村開発が、むらづくり運動という内発的な農村発展に転換してきた。転換点は、朝市・直販所。女性の活動拠点。生活改善普及事業を通して「考える農民」へと成長した農村女性は、地域の特徴を生かしたむらづくりを行い、内発的な農村発展の主体となった。
7章 外発と内発の中で創られていった保健婦の章。保健婦は外発的な介入を機会として誕生した職業。戦前のセツルメント運動から始まり、戦後、GHQによって強化された。地域密着の活動があり、行政と住民の中で葛藤があった。外発と内発の中で創られた保健婦。
終章 まとめ。占領政策を開発援助として見る。GHQの占領政策は、民主化が焦点で、復興は二の次だった。その後、アメリカ本国が方針転換し、経済力の強化へ。「民主化」「経済成長」に収斂する。この点では、開発援助の成功例といえる。
欧州向けのマーシャルプランでは、民主化に力点はなく、日本と異なる。日本は、「外から押し付けられた民主化」であっても、人々はその価値観を内面化していった。異なる形で、「日本型」の民主主義として定着していった。
日本の戦後開発からの教訓。ドナーが理想主義者であり続けたこと。マッカーサーへの評価。文化の違いへの自覚。被援助者の戦略性。例えば、農村社会の封建制を打破するためにGHQを利用した。「ドナーの利用」という戦略。
農村開発と公衆衛生に、比べると炭鉱問題は、GHQやアメリカの政策が成功したとは言い難い。国内の政治的衝突にドナーの政策が利用されることもある。
GHQはニューディーラーだったが、1949年以降のドッジライン政策は、日本版の構造調整政策と見ることができる。これは、1980年代の世界銀行Imfの構造調整政策の原型。新自由主義的なショック療法であった。「ドッジ不況」
ドナーの経済政策の変更(ニューディーラーから新自由主義へ)が、被援助国の政策転換を促した実例として見れる。
全体まとめ 被支援国からドナーへ。日本は、世銀借款を受ける一方で、1954年からODAを、始めいている。これは、前後賠償の意味が大きかった。1989年には、ODA世界一になるが、自らの被支援国の経験を活かしているとは言えない。産業からの期待から、インフラ、ハコモノ中心の支援に。社会開発に、日本の経験の振り返りが使える。