今日、春めいて、雪解けの最中に内見対応に出かけた。物件の離れの古いスレート葺が雪に巻き込まれて落ちている。母屋の1階の瓦も、大屋根からの雪(というか氷)が落ちてきて3枚ほど割れていた。写真をとってオーナーに応急処置を依頼する。この状態は、物件の保全に良くないし、売れる物も売れなくなるからだ。この物件のオーナーは、「対応する」とのことで安心した。
帰りに、車からムラの中の家々を眺めると同じように瓦が落ちたり、軒が折れたりしている。今年はまだ去年よりマシだ。去年の大雪で破損し、まだ補修されていない空き家は、もはや再居住できなくなっている。痛ましいと感じる。
何が心を動かすかって、ネグレクトされた空き家のオーナーは「もう、お前の修理はしない。なぜなら、お前は役立たずだからだ」と考えているように思えるし、たぶん、それを聞いたら「まぁ、その通り」と答えると思えるからだ。空き家が見捨てられることは、ようするに、この村や土地が見捨てられることである。それが、言うまでもないが、悲しい。
雪が降り、雪が解けるたびに、明るい日差しの中に、割れた瓦が露出してくる。その対比に、何とも言えない寂しさがある。春が来たことを喜びたいけれども、落ちた瓦を発見などしたくない。
物件によっては、高額の修理費なんか払わなくても、1-2時間作業すれば少なくとも5年は家の寿命を延ばすメンテナンスができる。(ずれた瓦をもどしたり、小規模と破損を修理したり)不動産屋としては、そういったメンテナンスに手を出したくなるが、業務として受託するほどの専門性はなく、無償で実施しても、どうやら免責はされないので、手を出せないでいる。オーナーにちょっとしたDIYを依頼したくなるのだが、彼ら自身、完全に無力と感じてることが多いので、専門家に依頼することになり、高額の修理費をみて、諦め、家を見捨てることになる。法的には「見捨てる」ことは想定されていないが、実際のところ「特定空き家」の指定はほぼなく、ムラの風景には見捨てられた空き家が蔓延する。
こうした、DIYできないと思っている気持ち、あるいは、他人の物件をメンテナンスすることを危険と思う気持ちが、また、僕を暗い気持ちにさせる。ようするに、僕らが暮らすということ、住まうということは、イリイチの言う意味で「離床」しているのだ。
そういう中でも、ごくまれにネグレクトされていた空き家が、突然、修理されてていたり、オーナーのメンテナンスを受けていたりする場面を目撃するときがある。とてもうれしいと感じる。たぶん、僕は、自分と空き家を同じようなものとして見ている。「まだ役に立てるのに」という気持ちを持つ同胞として。
ちょっとした瓦のづれ、軒の破損が直れば、まだいけるのだ。なかで誰れかが暮らし、その暖房のぬくもりがあれば、屋根の雪は解けて、瓦が割れることもないのに。「どうして、僕のそばに誰も来てくれないのだろう。」そんなふうに僕達は思っている。