この文章では、連続シリーズとして日本の限界集落、辺境で不動産屋で起こる様々な日常について記録することにする。僕は、不動産屋をやりながら、農村社会学の研究者でもあり、ここでは、学術論文にはできないけど、誰かに伝えたい内容を筆に随って書き連ねていこうと思う。
はじめにお断りすることは、この日記には多分に嘘が含まれているということである。だからこの日記は「夢日記」に過ぎない。断片的な事実や、僕の体験が夢に反映されるかもしれないが、夢は僕の著作物に過ぎず、一種のファンタジーなのである。だから、夢日記の記述を複合して事実を推測しようとしたり、その推測によって僕や特定の個人を批判したり攻撃したりしようとしてもムダである。夢は夢なんだから、気楽なムダ噺として聞いてください。とはいえ、夢には恐らく、1-2割の事実も含まれている。(実証的な研究を知りたい方は、僕の論文を含めて、農村社会学の文献を当たっていただければ。これは研究者によるムダ噺です)
僕について 転入まで
という前置きを経て、先ず初めは、話者である僕の説明から。僕は、2017年頃らか今(2025年末)に至るまで、東海の北部地域で不動産屋を営んでいる。その不動産屋をここではタヌキ不動産と仮称する。タヌキ不動産は、僕の個人事業の枠をでない極小の不動産屋である。不動産事業だけでは食べていけず、非常勤講師業やデザイン業で生計を立てている。僕は岡山県の出身で、さまざまな場所を転々とした後、東京都での起業と撤退(失敗とまでは言えない)を経て、2013年に妻方の実家の実家に里帰りした。「実家の実家」というのは、妻と両親の時点ですでに実家(=在所)を離れており、空き家となっていた古民家に移り住んだという意味である。いわゆる「孫ターン」と表現される移動である。とはいえ、妻の両親は車で30分程度の近傍に住んでおり、生活上の利便に富んだ状況である。
東京から限界集落に里帰りした理由については、なかなかハッキリと説明するのが難しい。子育て・仕事の撤退・不幸の連載・震災による不安といったところだろうか。1つ目の子育てについては、東京で親子3人(現在は4人になった)で親類の援助なく、借家で暮らしていくのはとても難しかった。長女には、かなり条件の厳しいアレルギーやアトピー、喘息の症状があり、食事や生活環境を整えることが大変であった。外部の専門家の援助を求めるには金銭が必要で、それを賄うために妻子を残して僕は深夜まで働いたりするのだが、それによる家庭内の不和も大きかったと思う。今にして思えば、父親として、社会人としての僕自身の理解の不足や力不足はかなり反省してはいるが、当時としては、(僕にとっては)突然生まれた長女と、それに伴う大きな喜びと、必然的な生活条件の変化に、全てが追い付いていなかったと思う。(正直なところ、同じような条件で上手く生きている人々を見ると、こころのそこから尊敬の念が浮かんでくる)
2つめの理由としては、仕事の撤退がある。当時、僕は株式上場を狙うようなベンチャー企業を大学院時代の友人と立ち上げて熱心に働いていたが、それが果たされなかったというのが大きい。その会社は、タイミングがちょっと違えば「上場していたかもしれない」という規模(売上規模3億とか)だったが、iPhoneの大ヒットに見られるようなグローバルなITCの変化、モバイルソフトウェア業界の変化に対応できず、大きく事業が撤退してしまった。(とはいえそれなりの利益も上げており、失敗とまでは言えない。「ゾンビベンチャー」化したというのがもっとも適切である)そのタイミングで、仕事そのものを考え直す必要があった。
それ以外の理由については、なかなか明文化するのが難しい。里帰りを決意する直前は、実感として妙に不幸が連続していた。ソフトウェア開発の仕事において、1日に3台のパソコンが連続して起動不可になった。(いまだに原因不明。マザーボードがハードウェアとして壊れた。電気的にショートした?)妻・長女が連続して長期間病気に苦しんだ。また、当時暮らしてたアパートで、2歳の長女が虚空を指さして「あそこに、おじいちゃんがいるぅー」などと話していた。また、2011年には東日本大震災も経験しており、僕自身も帰宅困難者として、神宮前から都立大学前までの長い距離を映画「宇宙戦争」の避難シーンさながらに群れの中の一人として移動した。漠然とではあるが、東京での生活に不安と先行きの無さを感じていたように思う。
タヌキ村について
僕が転入した限界集落は、妻方の実家の実家である。・・・・
転入後
2013年に限界集落に里帰りしてから、しばらくはデザインの仕事やソフトウェアの受託開発を生業としていた。最初の1年ぐらいは東京などに出張していたが、次第にめんどくさくなって、別の仕事の仕方を考えるようになった。集落を歩くと、空き家が目に付き、地域の有力者や行政の人々が空き家問題を口にし始めたのでそれに興味をもっていた。ちょうど普段からよくしてくれていた恩人である岐阜県の起業支援組織の人から新規事業に使える補助金の話をいただいたので、一念発起して宅建士の資格を取得してタヌキ不動産を開業した。
開業から今に至るまで、すべての仕事の進め方は、民法や宅地建物取引業法などに規定されるガイドライン等から学び取ったものである。特定の師匠やメンターを持ったことは無い。常に現場の物件と、関係者を観察しながら、失敗もありつつ学び取ったものである。
経営方針
私のタヌキ不動産の経営方針は、おそらく一般的な不動産屋とは大きく異なっていると思われる。たぶん気分としては、人文書・専門書を多く扱う古書店に近いんじゃないかな。生業であるし、お金を稼ぐことはもちろん大事なのだが、100%お金のために働いているわけではない。たぶん、売上に対する執着は、かなり低い方だと思う。いわゆる「嫌な客」が来たらすぐに取引を断る方向に梶を切るし、関わりたくない相手はどんどんブロックするし、ブラックリスト化する。ようするに、それほど「やる気」があるわけではなく、「お客様は神様だ」と思っているわけではない。心地よい人には親切にしたいと思うし、そうでなければ関わりたくない。そのような判断を、他人や資本に手渡したいと思ってはいない。
したがって、営業範囲や取り扱い物件数はごくごく少数である。最大でも1年で10件売ればよく頑張ったほうだと思う。不作?の年には、年間で3件しか物件が動かなかったときがある。
地域のなかで
こういう不動産屋を営んでいる人が僕であるが。僕は、前述のようにその集落に居住している。この日記のシリーズを楽しく読むには、僕の地域での位置づけが重要になると思われるので、それについてちょっとだけ記載する。(別に自分語りがしたいわけじゃないけど、ある程度自分語りしないと、日記が読解できないよね)
ここまでで既にご察しされていると思われるが、僕はたぶんそんなに社交的な人ではなく、「人間が好き」というキャラクターではない。今風?に言えば陰キャなんだろうと思われる。コミュニティとか、社会とか、集団といった言葉を聞いて、ポジティブな感情を持ったことはほとんどない。ある意味では、「社会とは必要悪だ」とか社会=敵だとか思ってたりする。とはいえ、隠者になれるほど孤高で強くもないので、社会の隅っこで、陰気な文章を書いているといったところだ。そもそも(農村)社会学なんてものを研究しようと思ったのは、社会が好きだからではなく、社会が苦手だからである。
そんな僕も、2013年から2020年ごろまでは、それなりに地域社会に溶け込んで「あるべき移住者」()のような規範に従おうと努力していた時期がある。しかし、しだいに息苦しくなり、必要最低限の関りに限定してしまった。現在では、本格的に限界集落の、荒野の隠者(いや陰キャ)になりつつある。まぁ家族はいるし、仕事もあるのでそんなに孤独でも孤高でもないけれども・・・。
以降に続く夢日記は、こんな状況の僕が、人間がほとんどいなくなった農山村(=荒野)において、そこに往来する人間を含む動植物のと現実の関りに触発されて、見てしまった完全な夢の記録である。