この文章は、日本の限界集落、辺境の不動産屋で起こる様々な日常を、夜寝ている間に整理した夢の記録である。したがって、これは多分に嘘が含まれるムダ噺である。
さて、限界集落の空き家には大量の家財が残されている。この「家財」についてどのような価値を見出すのかは、ひとによる。所有者やある種の古物好き、あるいはSDGsのスローガンを盲信している人は、それに価値を見出そうとするが、残念ながらほとんどの買主・借主は、ゴミだと思っており、入居までに撤去を求めてくる。そしてまた、国土交通省や宅建業協会が定めるような各種法令・ガイドラインでは、基本的にはゴミは排出した人が廃棄する事を想定している。したがって、ここは多くの紛争や困難が発生するポイントになっている。
安易に考える人は、古民家の不動産屋(=僕)に、「近所の人向けに譲渡会を開いたらいいじゃない」と助言するが、これは既に3度やって失敗している。事前に十分告知して、古民家に平日土日に渡って、10時ぐらいから15時ぐらいまで滞在して、家財の譲渡会を開催したが、新たな所有者が見つかった家財は、重量ベースで1%未満である。不動産屋としては、コストをかけても、ちっともゴミの処分が進まないのである。さっさと業者を呼んで処分したほうが合理的なのだ。(それでも古道具を廃棄したくないなら、自分で起業したり問題解決してほしい。。。僕は空き家で手一杯だ。)
重量ベースで1%未満しか新たな所有者が見つからない理由は、人々が引き取りできるものは、貴金属や高価な家電、工具、農業機械、少量の食器、レトロなおもちゃなどに限定されているからだ。古き良き和ダンスやレトロモダンのソファなどは、「素敵」と思う人がいることはいるが、引き取ってくれることはない。これは、専門の中古家具やを呼んでも同じである。でかい古道具は倉庫代を喰うわりに売れない。だから廃棄されるのだ。それ以外にも、空き家の最大の敵である、超大量の寝具や農薬、腐った20L以上の漬物、大型の家電4品目(テレビ・冷蔵庫・洗濯機・エアコン)を引き取ってくれるひとは全くいないのである。要するに、人々の安易な想像とは違って、空き家に残されたものは、レアなお宝を除けば、ゴミなのだ。そして、レアなお宝を探す人件費を回収するほど、高価なお宝が出てくることはない。
この文脈で僕の心情を素直に表現すると、家財ゴミに対して外部から「もったいない」と言うだけの人々に、苛立ちを覚えている。また、譲渡会において、家財を物色する人々、お宝を探そうとする人々の顔を見るのが好きではない。人間は、ものであれ人であれ、価値の有無を判断する立場に立つと、自然と傲慢になり、人相が醜くなると思う。「価値がある」から「もったいない」という人の顔は、かなり醜い。何故ならば、価値がないものを簡単に切り捨てられるからだ。これは問題の本質を見失っている。
僕は譲渡会が終わった後、取り残された、行き場のないもの達に囲まれて、僕自身が行き場のないものになったように感じられた。その気持ちは、本当に、何とも言えず、暗く沈んだものである。
しかし、結局、ごく一般的な人間である買主・借主は、ゴミを引き取ってくれたりしないので、多くの場合、僕自身がそれをゴミ袋に入れて、処分業者に引き渡すのである。1つの物件について、1-4週間ほどその作業を続けると、次第に心が凍ってきて、何も感じなくなる。(僕はこれをある種の修行だと思っている)
また、そのあとに、ゴミ処理の事業者の人々に出会うと、その淡々とした仕事ぶりに、尊敬の念を抱いてしまうのである。行き場のないもの達の最終盤に立ち会う事。これはもう少し評価されても良いんじゃないかと思う。もう、新しいものを作る事だけを評価するんじゃなくて、ものに始末をつけることを評価する時期に来ている気がする。そしてまた、ものに見切りをつける事、良し悪しを判断することを、もう少し批判しても良いように思われる。「もったいない」とか「お宝があるはず」なんて簡単には言えないよ。どんなものには創られた理由があり、記憶があるのだとしたら、それを保管できるときは良いけど、保管できなくなった時に、終わらせることから逃げてはいけないのではないか。簡単に「もったいない」とか言えないよ。