タヌキ不動産ゆめ日記4 選ぶ人の顔

僕は、何かを選ぶときの自分の顔を、他人に見られたくない。スーパーでお肉を選んでいる時、ケーキ屋さんでケーキを選んでいる時、ネットで電動工具を選んでいる時、小粋なマルシェで手作りクッキーを選んでいる時、洋服を選んでいる時。その時、きっと僕は醜い顔をしている。だから、その顔を見られたくないし、話しかけてもらいたくない。

したがって、当然、他人のその瞬間を見ることも好きではないし、避けて通ってきた。中高校生の時に、心の無い男子生徒が、女子を品定めするようなシーン(源氏物語で言えば「雨夜の品定め」)が、かなり苦手であった。別にフェミニズムを気取るつもりはない。ただ単に、「顔を選んでいる人物の顔」の醜さが、不愉快だった。「自分が見ているものから見返される」という、ごく当たり前の事実に気が付かない愚かさから、全力で距離を取りたいと思っていただけだ。

同じ理由で、アイドル文化が好きでない。ステージのアイドルを見上げる自分の顔が、当のアイドルからどう見えるのかが気になって、素直に感動できない。

自分を含めて、「品定めする人間の顔」が好きでないから、ほとんどの人生において接客業が苦手だったし、働くこともできなかった。おそらく、僕は、ペットショップや保護動物の交換会、水商売の客引き、女郎部屋の主人なんかで働いたら嘔吐してしまうだろう。繰り返し断っておくが、これは高潔な倫理を気取っているのではない。もっと単純な嫌悪である。ペットが陳列されているガラスケースの前で、「かわいぃいん」とか言っている人間の顔を、「可愛い」と思えたことが人生で一度もないと言うだけの話だ。そもそも、何らかの事物を好きに濫用できると確認している権力者の顔は、醜いものだ。それでも、「権力を握っている」ことに自覚的な賢者は、それを表情から消すことになれている。しかし、たいして豊かでなく、高貴でもない貧乏な消費者が、「何かを一方的に選んでやろう」と決めているとき、ある種の権力者となった瞬間の表情は、格別に浅ましく醜い。僕は、それを心底軽蔑しているから、接客なんてできるはずがない。

そういう僕が、空き家を扱う不動産屋をやると大変なことになる。タヌキ不動産が取り扱う物件は、平均200万円に満たない安価な金額である。政治的にも経済的にも見捨てられたような寒村(僕が住んでいる村)に所在している。その上、所有者からもほとんど見捨てられており、折れた雨どいや軒を治療してもらえず、屋内は不健康なまでに家財ゴミがあふれており、湿気やカビ、獣の糞尿で汚染されている。

保護動物の譲渡会で例えるなら、虐待につぐ虐待を受け続けてきた個体なのである。僕はいつも、新しい空き家を担当するたびに、適切な飼育をされなかった結果、四肢や目鼻に障がいのある年老いた猫や犬の姿を想起する。そして、その空き家に感情移入するのである。(ある意味では売主に感情移入するより、空き家という物質に感情移入する場合が多い。そして、買主には全く感情が動かない。)

そしてまた、当然、犬猫の譲渡会と同様に、状態の良い、問題のない、愛されて育った愛らしい空き家から売れてゆく。そのような現場に、10%程度の確率で、どこまでも傲慢で、「品定めする顔」を隠しもしない内見者がやってくる。彼らには、共通する特徴がある。空き家の内部を闊歩しながら、「ひょっとこ」のように口を尖らせて、何かを確認する度に、「ふーん」とか「ほー」とかいう声を発する。キッチンの状態を確認して「ふーん」、トイレの扉を開いて「ほー」、二階の階段をあがって「ふーん」といった具合である。彼らは、哀れな年老いた空き家の肢体を、常に視姦しており、空き家に対して過度に感情移入し、「化身」となっている僕の視線(見返し)に気が付いていない。

このような、僕や空き家にとって屈辱的な内見時間が終わって、内見者が帰ると僕らは、いつもホッとする。玄関にひと時座り、床板に手を置いてしまう。本当に、まるで自分事のように思えてしまうのだ。「大丈夫、お前はまだ役に立てる。雨露から家族を守る、価値ある仕事ができる。」と、僕自身が言ってもらいたい励ましの言葉を、古い家に投げかけるのである。僕らは役立たずなのだ。なんとかしたい。

とはいえ、全ての物件が売れるわけではない。所有者が諦めてしまえば、完全に放置されて朽ち果てるか、解体されるか、末路は決まっている。僕は、この最後を看取ることを重要なことだと思っている。僕は弱すぎる人間なので、人間や生物の最後を看取るという社会的な役割を担うことを避けてきた。(避けるべきでないと思っているが・・・)だから、せめて、作り出された建物の最後を看取ることからは、逃げ出したくないと思っている。役立たずの同胞を見捨てるのは、悲しすぎる。

生物であれモノであれ、新しく作り出したり、良いものを選定(キュレーション)したりする事だけが、殊更に評価されるという現代の気風は、本当に恐ろしく、醜く、浅ましく、悲しいものである。もう一度、打ち捨てられてもの、見捨てられたものに何らかの救済を求めるということが復権されないだろうか。

*ちなみに、僕が傲慢な内見者を軽蔑しているということは、空き家の取引条件や、買主による審査には何の影響も与えない。タヌキ不動産の物件の90%以上は、媒介(他に売主がいる)であり、僕自身が売主ではないからである。売主は、ただ単に「売りたい」と考えており、僕は、その意思を尊重するので、軽蔑すべき人間にも媒介業務を淡々と実行している。悪しからず。


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