タヌキ不動産ゆめ日記8 始まりの前の不安と劣等感

デザイン学会に参加して、「存在論的デザイン」についてディスカッションした。そこで、思い立ったので、タヌキ不動産を初めて今に至るまでの過程を内省的に調べている。過去のSNS記事や日記を見たりしている。そこで、タヌキ不動産を始める直前・直後の記事を見つけて、当時の気持ちが蘇ってきた。

母校である情報科学芸術大学院大学(IAMAS)が主催するハッカソンの現地のコーディネーターを担当していた時(2016)の話だ。東京や大阪、福岡から、名だたる大企業の開発者やデザイナーがあつまって、タヌキ不動産がある限界集落をフィールドワークして、デザイン課題を見つけるという2日間の試みだった。

1日目のフィールドワークとアイデア開発の作業が終わって、集落の唯一のスナックでお酒を呑んでいた時の話である。参加者は、東京のビジネス交流会と同じような振る舞いで、自己紹介をして親交を深めてゆく。何かを作るうえでの悩みや注意点などについて、意見を交換している。

当然、そこで、彼ら/彼女らが関わている現在の生業としてのプロジェクトに話が及ぶ。そのプロジェクト群が、それぞれに非常に巨大で、責任があり、斬新なプロジェクトなのである。僕は、目の前でお酒を呑んでいる人々が、僕と比較して、広い世界で重要な仕事をしていることを、まざまざと理解してしまった。これは、単純な劣等感と不安であった。

彼らに対して、当時の僕はどうであったのかといえば、ローカルに根を張って生きていく事を半分決意していたが、なんというか、グローバルなデザインやビジネスの世界での「落伍者」のような気分でもいた。べつに、顕著な事件や失敗があったわけではない。しかし、「これ以上はやっていけない」という気分が強く、妻の実母が暮らす辺境に逃げ出していたのだ。具体的に描けば、売れるアプリを作るために長時間労働は避けがたく、その結果、深夜に帰宅すれば、疲れ果てた妻子と、散らかった部屋が待っていた。そして、それをケアする気力と時間を維持する事が、「本当にできない」と考えていた。

だから、僕は、そのスナックの片隅で終始黙り込み、遠い世界の物語を、憧れと恨みが入り混じった目で眺めていたと記憶している。当時はまだ、タヌキ不動産もほぼ形になっておらず、自分がどこにいて、どこに向かっているのか、何も分からなかった。とても不安だったことを覚えている。

こうした劣等感・不安は、僕の中から自動的に生まれた部分もあるが、他人の態度から生まれた部分もある。僕が住む村のフィールドワークに参加した開発者・デザイナーの人々は、わざわざ業務の忙しいなか、自主的に限界集落にきて学ぶぐらいだから、現地のコーディネーター、あるいはインフォーマントとしての僕に、敬意を払って会話してくれたし、その会話から、僕がかつて、都市的な、グローバルな仕事に関わっていた時期があることをすぐに気づき、「話ができる人間」として扱ってくれた。(ここは、表現がむずかしい。要するに「普通に」話してくれた?と言える。「田舎のインフォーマント」を前にした調査者の演技が無いような態度のこと)

しかし、「デザイン」に興味はあるが、フィールドワークに興味が無い学生、あるいは授業単位のために、半ば義務的に参加した学生たちの態度は、正直に書くと僕にはとても失礼に感じられたし、まるで、おじいちゃんか子どもに話しかけるような、僕を下に見たような態度を感じざるをえなかった。その学生たちは、僕が彼らより、高度(とされる)教育を受けている事、グローバルで重要(とされる)デザイン仕事の履歴があることを、別の大人から指摘されると、簡単に接し方を変えた。

僕の不安と劣等感は、僕自身が、デザインの歴史的蓄積に興味をもち、それを学ぶ学生たちが、「よい」と判断している方向とは、別の方向に歩んでいることを痛感したことから来ていた。もちろん、薄々、別の方向に進んでいる事を自覚していたが、他者から露骨な軽蔑を浴びせられると、不安を抑えることが難しかった。しかし、僕は、この不安を抱えたまま進んだ。再び来た道を引き返すことは無かったし、それができる状況でもなかった。


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